2015/08/31

昭和20年 戦に征くの年かな

父は昭和20年の8月に入隊したが、戦地に赴くことなく終戦となった。
父がどのような想いで日々を過ごしていたのか、もっと話を聞いておけばよかったと後悔するも仕方がない。この日記が残っていることがなによりの救いで、抜粋してみた。(少し長いですが・・・)


昭和十九年七月十八日 起530 眠2130 晴曇

第一乙種合格!神戸懸隊区司令官陸軍少尉窪田武二郎閣下より決定のあった時・・・・総てが終わったの感がした。
 一乙と 云われて見返る 我体(カラダ)
七月十八日 時正にサイパン島全員戦死の報に接し予知し居るものと謂え 又之憤 歯がゆき迄に聞く「らじを」・・・中略・・・
 我も今日より皇国の軍人かな 総てが今大いなる戦争の議に動く 余も我も私も僕も今偉大なる理念燃えて太平洋の捨て石にと・・・
感情の 激昇する時 何も云えず書けない




昭和二十年 正月元旦 起730 眠2010 月曜日 晴 雲低シ 風穏やか
除夜の鐘音うわの空 除夜のサイレン、寒朝に!五時頃もたんと光った焼夷弾。
B29の初参り。低雲白いものが三つ四つ。工場の廣場で神酒上げる。
観測が示す今日は暖かい低気圧かな。

何もする事のない元旦は、餅と数の子食ふだけだ。朝風呂がたった一つのご馳走だ。
いい心地の風呂の中こそ別天地だ。
正月気分の生半可は味いたくない。私は常の休日として過ごした。
午後の低い太陽が冬枯れのやまに影を作った時、僕は林中無人の草枕。
自然にとけて時三時間。小鳥の目の先三、四尺。遊んだ冬蚊が只一匹。
僕専用の空想前提に立脚した空想は野の草に楽しい
「啄木集」「一握の砂」にある自然観ふが気に入って再読した。
僕の思っている事を名文で書いている。彼は僕と同じだ。
冬の山を歩き廻った踏んでいけない春の芽はないから心おきなく抜渡出来た。
 冬の山は淋しきものなり。立ち止って木にもたれ 
それとなくほほづけして自然の冷ややかさを恋(戀い)したい。
枯れた尾花を折らぬよ様、立ったままで腐るよう、切り倒されたその踏が白く残れる木の株が首のない胴の如く痛々しくなげかわしい。
 帰って来て気がつくと、胸の名章がなくなっていた。
僕は自分を林の中に置いて来た。僕はまだ山にいるよ。
そうだ。僕は山の冬の野の「とりこ」となったのだ。
気のむかない夜が来た。其處には明日が待って居り空の客があるもの。
今日は空想で遊んだ。之ほど面白いものがあろうか。
自由だ。完全な自由が其處にはあり、あらゆる事が出来る。正月の一日はかくして暮れた。
おそらく生後最大の寂しい一日だったろう。この気持が解ってくれるか!
月の出は遅い。身と心を持て余す一日かな。
東西南北拝して之を四方拝謂い終わるかな。
元旦


一月二日
清い二日の始業の日も見せつけられた総てのものが怠落の底を行く光景には、さしもの俺もいやになった。・・・中略・・・
僕にビールの配給が有ると云った。そして配給券を持って来た。ビールなんかいらん。僕は永久に十九才でいたい。今年も僕は未成年でよろしい。
私の心は今一大渦乱の中にある。
根本的基礎観念がぐらついている。


一月三日 起六〇〇 眠二〇〇〇
内面的渦乱は時間の増す毎に助長され複雑化されて其の内面的自制力を破らんばかりになって来た。
人生観の全面の崩るるを知りつつある。二十一才になりて子供心は消えゆきて世上の成人に向かっている。子供心童児心を維持せんとする所八方の魅力を捨てて静かに内面的考察が要求された。


正月四日 起六一五 眠二〇〇〇 
何時起きることやら知らぬ敵機の来る夜
一月の夜二日、三日と三日間空襲はなかったからよく寝れた。今19時45分である。一機に出て行って、今帰って来た所だ。今夜は三回も有るか知ら、今夜もまたゲートルを巻いたままヒの丸寝かな。・・・略


三月四日
B29 150キ 7時から十時迄低い雲の上を爆音だけ我々に聞かせながら幾編隊が飛んだ 
敵は悪天候をねらって来る様だ

堅ちゃんから最後となるやも知れぬ手紙が来た!
三乙の体をさげて激戦の最中に征く知らせが来た!
彼も征く切々と戦が身にしみる 
堅ちゃん後から征くよ
一足先に行ってくれ給へ 會えぬのが残念だが 
この我孫子の地で堅ちゃんの武運長久を祈っています
堅ちゃん永久に僕の堅ちゃんである 兄ちゃんではない 堅ちゃんである 故郷は雪が屋根迄あるようだ その雪の中に日の丸をたてた我が家の前に立派にたった堅ちゃんを心に画いて見送ります

三月五日
夜一キ B29が来た・・・

 三月九日
二二時警報発令 

三月十日 
一時より 三時までB29百三十機
帝都空襲

三月十二日 月曜 快晴 今日こそ一点の雲終日なし
罹災者が道をゆく なんとも云えぬ涙ぐみ あの人もあの人も この光景は・・・

名古屋がまた夜間盲爆された!あの東京の面相が名古屋にも・・・
醜翼B29・・・あーっ畜生・・・中略・・・


三月二九日 一八日
 醜翼B29の落っこちた所を見に行って来た 農家のすぐ裏完全に分解して落ちてきた 其れは原型を止めない迄もありありとその大きさと米國の技術を語っていた 幾十米の彼方の発動機は田の中にもぐり曲がったペラを出していた B29の落ちたのを見た 之かあの夜に我々の頭上を行く奴は之か・・・・之だ・・・梅花の咲く庭にああ戦いの跡 日本の飛行機をよくよく見たことはないがこのB29をみていると参考になることが多かった。
会社から三里ぐらい疲びれて帰って来た つらく身体の弱化を知った。

日B29の部品を分解して見た 焼けた表面をあざむく内部は一つのビスですら残念ながら日本の負けだ 実に考えがうまく要を得て作ってある 物の國米國の物の力を示している 不要なところは実にあらく必要なところは実に入念だ 電化されたB29をありありと見ることができる

日本の國沖縄に敵機来襲す・・・・切々とそのにくさを感ずる


五月六日
ドイツが敗れた ドイツが敗れた 遂に敗れた ソ連の量に崩された 量に負けたのだ
量こそ勝つ最高の兵器だ・・・・・

 五月十日
ひしひしと迫り来るさけられぬ運命
其れは総ての人類が苦を以て甘受せねばならぬ運命である 戦の本旨を究明するならば 人間本能より生じたる利欲より発したる運命の魔神が一方的に集積するとき突如として戦いは生ず
ドイツは敗れた 彼の欧州の戦は何故に生じたか。・・・天に昇りて見るならばドイツが正義か英米が正義かソが正義かいずれもとも云えないと思ふ 日本の戦と本眞が違うと思ふ・・・・


六月ニ五日 月曜 曇 小西有
沖縄の最後が報ぜられて来た 我々国民があんなにも沖縄へキタイした総てが消えて了った
其は来るべき日本の戦局に重大味を多分にふくんで 今日今しがた沖縄は全く敵手に帰しつある
初めて我が領土が敵に占領せられた!これだけで有史以来の出来事である
我孫子残して二十日・・・

(※父は8月1日入隊の予定でその前の2週間。故郷の兵庫県但馬で過ごしている 東京駅から京都そして豊岡へ其の道中の様子も涙がでる)


七月二十九日 月曜 好晴
 私も遂に入隊の時が来たのだがこの戦局の基石に征くのだが何の心は生じはしない 正直な所 端々 たるものである。
この小川と別れゆくが最後とは思はない 強い再会の念が有る 之は必勝の信念の基より発したものである
もし之が最後となれば その時のことは十分に行っておいて考えていない 之が私の主義だ
今征くにあたり二十一年の生活にくゆる所は寸もない 遺言などさらにない
一切の後持はは父上に願う 之が遺言である
 この機来るは人生の一大事であらうが
そう重大ばるものを感じない 其れは本土も戦場なった今日の影響かもしれぬ

命・・・絶対の命でもなければ今更どうのこうのとない
死生観・・・こんなものは文者の玩具か僕はいらん
覺悟・・・何が其やら云えぬが萬人に負けぬ気力と体力と意力が潜在的に皆んなの行為に盛り上がってくる只この盛り上がりをかりてその場その時の最善と思ふ事を良くするだけである
事に最善 之でゆくつもりだ

が生命ある機械の人間が最大の人類悲劇戦争に今総てを捨てゆく・・・
このうるはしの小川を守り父母の安らけく子孫の興らん事の為に・・・
この家に米兵の侵入せる姿を想像せよ 其が総ての戦争の目的を示してくる
・・・中略・・・
玉砕之はいやだ 瓦となって生き伸びて戦うのが今度の戦争の特徴の一つだ
日本は「いさぎよい」之をほこりとなし 之を行ふに苦はない
けれど今度の敵に対しては之は厳禁と思ふ彼等は其れを算にいれているだらう ねばりこのねばりで勝つ戦争が今であると思ふ
・・・続く・・・


0 件のコメント: